戦国武将を訪ねて…「徳川家康・秀忠」公
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「徳川家康・秀忠」公
「徳川家康・秀忠」公を訪ねて「江戸城」へ。
「和田倉門」。1620年に建つ。「秀忠」公が整備した‥
「西の丸下」と「大名小路」とを分けた「和田倉濠」に橋がかかりその先に門があった。
現存する櫓の1つである「巽櫓」と‥
「桔梗門」。それぞれ「桜田二重櫓」、「内桜田門」と呼ばれ「三の丸」に繋がる。1590年に「家康」公が入城後、整備に取り組んだのはその「三の丸」の他「本丸」「二の丸」「西の丸」「石垣」「城門」等の主要部分である。
「大手門」を構成する「高麗門」と‥
「渡櫓門」。ここも「三の丸」に繋がる。
「大手三の門」。この先は「二の丸」に繋がる。
「同心番所」。当時は「大手三の門」前にあり御三家以外の大名はここで駕籠を降りて登城した。ここで待つ大名の供の監視に当たるのが「番所」の役目になる。
「中の門」。「江戸城」の中で最も大きな巨石が使用された石垣である。
「百人番所」。「中の門」前にあり「鉄砲百人組」と呼ばれた「根来組」「伊賀組」「甲賀組」「二十五騎組」の4組が交代で詰めていた。各組には同心が100人ずつ配属され昼夜を問わず警護に当たった。
「中雀門」。「江戸城」の門の中で最も規模が大きかった。ここから「本丸」へ入る事になる。
「大番所」。「中の門」と「中雀門」との間にある。他の番所よりも位の高い「寄力」・「同心」により警備されていた。
「本丸」には入らず「二の丸」を散策する。この辺りも「家康」公時代に整備された。
「本丸」側には「梅林坂」と「汐見板間石垣」。間には「白鳥濠」がある。
「天神濠」。
「平川門」。城内で罪人や死人が出るとこの門から出された。現存する門で中で枡形門の形式を残している。
「平川濠」。
「平川橋」と「大手濠」。向うに「竹橋」が見える。
かつて「竹橋門」があった付近を通る首都高竹橋JCT。
「清水濠」。
「清水門」の正面になる「高麗門」。
「高麗門」と枡形を形成する「櫓門」。1658年に建てられた。
ここを抜けると「北の丸」に入る。ここを含め「西の丸下」そして「大名小路」と呼ばれる大名屋敷エリアが「秀忠」公により整備されていった。
「田安門」。1636年に建てられる。門名の由来は門内に田安大明神があったためと言われている。
「北桔橋門」。
「北桔橋」から見た「乾濠」側の石垣。
「北桔橋」から見た「平河濠」側の石垣。
「天守台」。かつてこの「天守」は諸国の「天守」の中で群を抜いていた。巨大化は大工の技術的な革新による。初期の「望楼型天守」から櫓を重ね心柱や通し柱を巧みに配置して一体となる構造を編み出していった。この「江戸城天守」はまさに日本の頂点でありそれを可能にしたのが「家康」公側近の大工棟梁「中井藤右衛門正清」であった。
「本丸」。かつてはここに「大奥」や「中奥」等の御殿が建ち並んでいた。
「富士見多聞」。鉄砲や弓矢が納められていた。
「富士見櫓」。現存する櫓の1つである。
「坂下門」。この向うが「家康」公が整備した「西の丸」になる。現在は皇居となっている。
「二重橋」。その向うに見えるのは「伏見櫓」。京都の伏見城の櫓を移転したと言われている。
「外桜田門」。1860年にこの辺りで「桜田門外の変」が起きた。「江戸城」は「家康」公によって開かれ「秀忠」公に継承された。その後も拡張を続け北は水道橋、東は永代橋、南は芝、西は四谷までの広大な城郭を形成していった。現在はその名残を見つけるのは難しいが「家康・秀忠」公が形成した城内を歩くとその広さと首都の中心とは思えない静けさに驚く。
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