戦国武将を訪ねて‥ 長篠の戦い「織田信長」公
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戦国武将を訪ねて‥ 長篠の戦い「織田信長」公
1573年4月「信玄」の死により最上作戦を中止せざる得なくなった「武田家」。甲斐に戻り家督を継いだ「勝頼」のそれからの行動は早かった。その年の10月には遠江に侵攻。翌1574年1月には「信長」配下の美濃「明智城」を降す。そして同年5月には父「信玄」すら落とせなかった「高天神城」を落としている。意気上がる「勝頼」は翌1575年3月1万5000の兵を率いて「長篠城」を囲んだ。これに対し「信長」は「家康」の援軍要請を受けて3万の兵で臨む事を決定。今回ばかりは「武田」を叩く必要ありとの判断だったのだろう。
1575年5月13日に「岐阜城」を出陣した「信長」は「桶狭間合戦」時に詣でた「熱田神宮」に再び詣でている。「武田」を叩く決意は、なみなみならぬものがあった。
翌14日「岡崎城」に到着。ここで援軍を要請してきた「家康」と合流。この「岡崎城」において長時間の軍議を開く。ここで「信長」が秘策を述べている。それは‥
「長篠城」を逆包囲するのではなく‥
手前の「設楽原」に‥
城柵を築き‥
多数の鉄砲を用意して戦いに挑むというものであった。「武田騎馬隊」に対抗する為の手段として「信長」は絶対の自信を持っていた。それは「相手を全滅させ味方は1人も損なわない」と述べている事からも分かる。
「信長」が本陣とした「茶臼山」。
「勝頼」が「長篠城」を包囲して10日。城攻めは膠着状態のままである。5月18日には「織田・徳川連合軍」は「岡崎城」を発し「長篠城」手前4kmの「設楽原」に到着した。しかし「信長」は動かなかった。なぜならここで対「武田」の秘策を築くためだあった。但しこの作戦の成否は「勝頼」の本隊が「長篠城」の囲みを解きここ「設楽原」まで出陣してくるかどうかにかかっていた。
「信長」嫡男「織田信忠」が本陣を置いた「天神山野辺神社」。当時20歳。
「連吾川」手前に‥
3重の「馬防柵」を造り‥
「空堀」や「土塁」に加えて背後の丘を階段状の崖へと造り変えた。そして「信長」が巧妙だったのは「勝頼」をこの「設楽原」に引き入れる為にあえて自軍の弱さを吹聴した事だ。それは臆病風に吹かれて「長篠城」まで攻め込む事が出来ないと言った類のものであった。その策にまんまと「勝頼」はのってしまった。過去の「三方ヶ原合戦」等を見ても「織田・徳川軍」はいつも弱かった。「勝頼」はそんな印象を鮮明に感じていた事もあったのだろう。
そして5月20日のうちに「勝頼」は1万2000の兵を率いて「設楽原」に着陣。陣形は「鶴翼の陣」。
連吾川を隔てて「織田・徳川連合軍」が築いた「馬防柵」の向うには‥
3000挺の「鉄砲足軽隊」が配備されていた。結果は‥前回までにお伝えした通りである。ただ特筆すべきは「信長」が考案したいわれる「鉄砲三段撃ち」だろう。現在ほこの「三段撃ち」説は否定されているが3000挺の鉄砲が雌雄を決したのは事実である。
「大宮前激戦地」。「設楽原」の北側の主戦場。「織田・徳川軍」の「佐久間信盛・滝川一益」と「武田軍」の「馬場信春・真田兄弟」が激突した。
「長篠合戦」勝利後の「信長」はいよいよ天下統一に邁進していく。1576年(天正4)には琵琶湖のほとりに「安土城」の築城を開始する。これにより東山道・北国街道及び琵琶湖水運を押さえた事により京をうかがう準備が整った。
3年後には五重七階の天主が完成。まさに「信長」は絶頂期を向かえた。
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