戦国武将を訪ねて‥ 「松平忠輝」公
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戦国武将を訪ねて‥「松平忠輝」公
天正20年(1592年)1月4日「徳川家康」の六男として「江戸城」で誕生した「徳川忠輝」公を訪ねて「越後高田城」へ。
1600年の「関ヶ原合戦」時において「忠輝」公は8歳である。戦国武将とは呼ぶには無理がある。しかしまわりにいた武将はまさしく戦国を生き抜いてきた強者達であった。「忠輝」が堀氏に代わり「越後福島城主」に任じられたのは慶長15年(1610年)18歳の時である。慶長19年(1614年)には「高田城」を築き入城する。「高田城」は天下普請により「忠輝」公の義父である「伊達政宗」をはじめとした戦国の強者達の普請により築城された。
「二ノ丸」から「本城堀」越しに「本丸」とを結ぶ「極楽橋」を望む。
「極楽橋」。
「極楽橋」を渡り「蹴出門」を抜けた所にはかつての「土塁」が残る。ここは見応えがある。
「本丸」。この城は竣工から完成まで約4ヵ月で終了している。これは特筆すべき事であり背景には「豊臣」を牽制し「徳川」を盤石なものとする為と言われている。
「三重櫓」。「天守」の代りをはたしていた。「忠輝」の時代は「二重櫓」であった。現在の「三重櫓」は1993年に復元。
絵図や古文書に基づいた木造建築による復元である。
「三重櫓」最上階から「番所」方向を望む。
「内堀」‥
満々と水をたたえるこの「水堀」も見応えがある。
通常、他で見るこのアングルもこの城では一味違う。「櫓」の下には「石垣」はなく「土塁」がある。これは「忠輝」が「豊臣」との決戦を間近に控え完成を急がせた為とも言われている。しかし父である「家康」は「忠輝」の母である「茶阿局」の出自が低かったため「忠輝」を嫌った。その為1614年の「大坂冬の陣」では出陣命令が出ず「忠輝」にとって不満が残るものであったが従うしかなかった。しかし翌年の「大坂夏の陣」では出陣命令が下りている。翌1616年兄の「秀忠」から改易を命じられ伊勢国朝熊に流罪とされる。1618年には飛騨国高山、1626年には信濃国諏訪に流される。92歳の年、幽閉先である「諏訪高島城」にて死去した。
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