戦国武将を訪ねて‥ 「水戸城」
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戦国武将を訪ねて‥「水戸城」
「徳川家康」が祭神である「東照宮」に面して走る「銀杏坂」。その向うが「南三の丸」。現在はビルが立ち並ぶ。かつてはここに武家屋敷があった。この場所が‥
江戸時代を通じて「徳川御三家」の一つ「水戸徳川家」の居城であった「水戸城」である。「徳川御三家」と言えば他は「尾張徳川家」「紀州徳川家」とあるがこの二藩の城に比べて「水戸城」はかなり質素であった。質素と言っても「石垣」がないだけで‥
「空堀」はかなりの防衛能力を持っていたと思われる。写真は「三の丸」と「武家屋敷」を仕切る「空堀」。
「二の丸」と「三の丸」を仕切る「空堀」。現在は県道232号線として使用。
「本丸」と「二の丸」を仕切る「空堀」。現在はJR水郡線が走る。どちらも深さがあり城のとしての機能としては十分だと思われる。この様に城の東西は「空堀」で守っていた。
北側は「那珂川」。南側は「千波湖」を天然の堀としていた。写真は「二の丸物見台」から見た「那珂川」。そして‥
「偕楽園 好文亭」から見た「千波湖」の方角。手前はキリシマツツジが広がる庭園。
「土塁」。現在も県庁舎内に残る。「水戸城」は「馬場資幹」により平安時代末期に築かれたとされる。戦国期における城主は「江戸 通雅・通泰」父子であった。豊臣期に入って「佐竹義宣」が城を大改修した。ところが「義宣」は「関ヶ原の戦い」では不明瞭な態度に終始したため1602年に「家康」によって水戸から追放。自信の子を入城させここから「水戸徳川家」が始まる。尚、「義宣」は出羽国に転居させられ「久保田藩」藩主となる。
「大手門跡」。現在は「大手門復元整備工事」が始まっていて車両は通行止めとなっている。歩行者は専用仮設通路を利用しての通行となる。
「杉山門」と「杉山坂」。藩主の御殿がある「二の丸」に通じる坂。坂の頂上に「杉山門」があった。1625年初代藩主「徳川頼房」により整備される。
「医薬門」。「水戸城」で現存する唯一の建造物。安土桃山時代末期「佐竹氏」により建造されたと考えられている。
「柵町坂下門」。「二の丸」の南口にあたる。
「徳川斉昭」により‥
1841年に創設された水戸藩の藩校「弘道館」。「三の丸」内にある。
「尊王攘夷」。「弘道館」の教育理念を示したもの。幕末期においてのこの考え方は「斉昭」の弘道館記によるものがもっとも早い。「幕末尊王攘夷論」は「水戸学」による影響が大きい。
「水戸学」とは‥すなわち江戸時代に形成された政治思想の学問。全国の藩校で教えられその思想は「吉田松陰」等に大きな影響を与え「明治維新」の原動力となった。
戦後「尊皇攘夷思想」は批判を受けるが本来「水戸学」は幅の広い学問体系を持っている。「水戸学」の形成には「徳川光圀」の「大日本史」編纂のために集まった学者を中心としており、あらゆる学派を網羅していた。写真は「光圀」の銅像。そして‥
「光圀」生誕地に建つ「水戸黄門神社」。
「光圀」と「斉昭」を祀る「常盤神社」は「偕楽園」にある。
徳川家最後の将軍「徳川慶喜」も「講道館」で学ぶ。写真は家族写真。左端が「慶喜」。
「慶喜」使用の「長持ち」。
「弘道館鹿島神社」。「弘道館」の神殿として創祀され現在も「三の丸」内にある。
「斉昭」が「仁孝天皇」の勅許を得て構内に神殿を設けた。そし1875年常陸国一宮である「鹿島神宮」より分霊を迎え弘道館の本開館式を行った。写真は「鹿島神宮」。
「八卦堂」。「弘道館鹿島神社」側に建つ。
「弘道館記」。「水戸学」の精神を網羅。この石碑が「八卦堂」に納められている。
「備前堀」。初代「頼房」の時代に灌漑用水と洪水防止のため築かれた用水堀。
「伊奈備前守忠次」により築かれた。その名から「備前堀」と言う。現在でも農業用水として利用されている。
「偕楽園」。1942年「斉昭」により造られる。
「好文亭」。木造2層3階建ての「好文亭」と木造平屋建ての奥御殿からなる。1840年「斉昭」自身の設計。
国内最初のエレベーターとされる「配膳用エレベーター」の昇降通路。
水戸は現在も「水戸藩」の城下町として当時の面影が残っている。
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