戦国武将を訪ねて‥ 「前田利長」公
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戦国武将を訪ねて‥
「前田利長」公
「前田利長」公は「加賀藩」の藩祖「前田利家」公の嫡男。すなわち加賀前田家2代目であり「加賀藩初代藩主」である。その「利長」公が晩年を過ごした「高岡」の城下を訪ねてみた。
まず訪ねたのは「高岡城」。「高岡城」は「利長」公が隠居後に入った「富山城」が焼失したため新たに築城された城である。
縄張は当時「前田家」の客将だった‥
「高山右近」と伝わる。
南西の方角にある「大手口」から‥
現在は真っ直ぐ道が延びる。かつてはこの先に門があり枡形になっていたと思われる。城は「本丸」「二の丸」「三の丸」「明丸」「鍛冶丸」の5つからなる。
「大手口」かを抜けると「鍛冶丸」に入る。「南外堀」を見ると赤い橋(駐春橋)が「二の丸」に架かるが当時はなく「外堀」が行く手を阻んでいた。
「鍛冶丸」。現在は市立博物館が建つ。
「明丸」。現在は動物園が建つ。
「明丸」の西側に「本丸」があり「西内堀」が護る形となっている。写真の赤い橋(朝陽橋)は当時はない。
「三の丸」。現在は体育館が建つ。
「二の丸」を駐春橋から望む。春には桜が咲き誇るそうだ。
「南外堀」。
「二の丸」。現在は市民会館が建つ。
「本丸」を護る「内堀」。「二の丸」とは「土橋」で繋がる。
「土橋」の両脇には「石垣」が残る。
「二の丸」から「本丸」を望む。
「本丸」。現在は広場と‥
越中一宮「射水神社」が建つ。
「本丸」を護る「内堀」の向うは「小竹藪」。「御城外」とされているが現在は1つの郭とみなされつつある。「利長」公は1614年(慶長19年)に死去。この城で晩年を過ごしたのはごく僅かであった。その翌年には「元和の一国一城令」により「高岡城」は廃城となった。「利長」公の死は病死とされる。享年53であった。墓所は「高岡城」の南‥
1km程、離れた場所にある。3代「利常」公が三十三回忌に造営。
墓域を護る様に‥
堀で囲まれている。これは「利長」公の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点として配置されたと考えられている。
2段の石段で築かれており高さは約12mある。大名個人の墓としては最大級といわれている。
「八丁道」。墓所と西にある「利長」公の菩提寺「瑞龍寺」とを結ぶ参道。参道に沿って堀が設けられ南面は石垣積みであった。有事の際には瑞龍寺と墓所とを繋いで「高岡城」南方の外郭防衛線となるべく造成された。
「八丁道」の途中には「利長」公の銅像が置かれている。
「瑞龍寺」。「利常」公は1654年から「瑞龍寺」の伽藍整備に着手。伽藍配置とは「山門」「仏殿」「法堂」を一直線に並べ左右に「回廊」をめぐらして諸堂を対称的に配置する様式。完成したのは「利長」公の五十回忌にあたる1663年。
「山門」は現在、保存修理中である。
さて「高岡」において「利長」公の晩年を過ごした時間は約5年と短かかったが中国の詩経「鳳凰鳴けり彼の高き岡に」という一節に因んでこの地を「高岡」と名づけた事もあり市民にとっては大切な偉人として敬われているようである。
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