戦国武将を訪ねて…「鍋島直茂・勝茂」公
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「鍋島直茂・勝茂」公
かつて幾重にも「外堀」を巡らし攻撃があった際には水没させ敵の侵攻を防ぐ事から「沈み城」とも呼ばれていた「佐賀城」。その様子は今でも感じ取る事が出来る。
江戸時代には生活用水に使用されていた「掘割」。
この城下と城内を築いた「鍋島直茂・勝茂」公父子を訪ねてみた。
厳密には築城ではなく改修である。「直茂」公は主家である「龍造寺氏」の居城であったこの城(村中城)の改修計画を1585年にはしている。しかし未だ当主である「龍造寺政家」公の居城であるが故に計画は実行されなかった。計画が実現したのは正当に佐賀藩主として認められた後の1602年である。「直茂」公の計画を周到して嫡男「勝茂」公が1611年に完成させた。なお「直茂」公は「龍造寺氏」への配慮からか藩主の座に就くことはなかった。「直茂」公は藩祖と称される。
1607年「龍造寺政家」公死去。「勝茂」公は幕府公認の下で佐賀藩の初代藩主となる。「勝茂」公は「龍造寺家」から「鍋島家」への政権移行に従事し見事に内乱の防止を成功させた。はれて「本丸御殿」の主として「勝茂」公が入った。
「御殿」から見た「天守台」。かつてはここに「天守」がそびえていた。
「天守台」から見た「御殿」。
1726年大火に見舞われ「天守」以下「本丸」建造物の大半を焼失。現存する「鯱の門」は再建時の1838年に完成。
「天守台」。「天守」は1726年の大火以後再建されていない。
外観は4層屋根。内部は5階建となっており最上層が上下2階建となっていた。
「天守台」から見た「鯱の門」。1838年の再建や藩政改革に尽力したのが‥
10代藩主「鍋島直正」公。「佐賀の七賢人の1人」と呼ばれる偉人である。
「天守台」から見た「西側土塁」。
「勝茂」公は1637年「島原の乱」へのに出陣を命ぜられる。ここでは先に訪ねた福山藩主「水野勝成」公と共に参陣している。父である「直茂」公1618年病死。享年81。「勝茂」公1657年死去。享年78。当時としては2人とも長命である。ここから明治維新まで10代「直正」公の子「直大」公まで「鍋島家」は続いた。
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