戦国武将を訪ねて…「吉川経家」公
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「吉川経家」公
吉川一門の中でも武勇に優れた「経家」公を訪ねて‥
「鳥取城」へ。
「大手登城路」。かかる橋は「擬宝珠橋」。その先は「中ノ御門跡」。
「中ノ御門」側から「大手登城路」を見る。現在は復元に向けて整備中。
「北ノ御門跡」手前の「宝珠橋」から「擬宝珠橋」を見る。
「北ノ御門跡」。
「米蔵跡」。
「三ノ丸跡」。
「太鼓御門跡」。
正面に見えるのが「天球丸跡」。
「楯蔵跡」。ここから‥
「天球丸」の名の所以である「天球丸巻石垣」を見る事が出来る。
「天球丸」。
「天球丸」上から「天球丸巻石垣」を望む。
「表御門跡」。
「菱櫓跡」。
「菱櫓跡」上から「太鼓御門跡」を望む。
「三階櫓跡」。
「三階櫓跡」に登り「米蔵跡」を望む。手前に建つ洋館は「仁風閣」。
「石切場跡」。
「裏御門跡」。
「お左近の手水鉢」。
「登石垣」。
「西坂下御門」。
「小鍛冶の石船」。以上は「山下ノ丸」と呼ばれる「鳥取藩」時代の場所に建つもの。「経家」公の生きた戦国時代の遺構はこの上の「山上ノ丸」に残る。
「二ノ丸」奥に建つ「八幡宮跡」から標高260.2mの場所にある「山ノ上丸」へ向けての‥
山道はかなりの険しさを誇る。「信長」公に「堅固な名城」と評され「経家」公自身は「日本にかくれなき名山」と称した「鳥取城」の堅固さが実感できる。1581年2月「経家」公は「鳥取城」に入城。これは「秀吉」公率いる「織田中国討伐軍」の侵攻に対抗する為「吉川本家」からの命によるもの。「鳥取城」の守備兵はおおよそ4,000人。「経家」公はすぐさま防衛線を強化して籠城の準備に取り掛かった。
「山ノ上二ノ丸跡」。
「山ノ上二ノ丸」から鳥取平野を望む。
「車井戸」。「経家」公が入った時代にはなかった。
「天守台」。1573年「布勢天神山城」の3層の天守を移築したとされている。
「天守台」から望む日本海。「経家」公がこの城の在城は約8ヵ月。「秀吉」公による「鳥取城渇え殺し」が行われたのは在城4ヵ月目である。「信長」公の指示により「秀吉」公は2万の兵力で「鳥取城」を包囲し一切の補給路を断った。これにより兵糧は尽き始め2ヵ月目には城内のあらゆる物を食べ尽くし3ヵ月目には餓死者が出始める。城内は餓死した人の肉を食す有様となったが4ヶ月の籠城には耐えた。「経家」公は城兵の命と引き換えに降伏の意を決す。「秀吉」公は「経家」公の奮戦を称え自刃の必要なしの旨伝えるが「経家」公はそれを拒否。責任を取って自刃するとの意志を変えなかった。この武勇は現在もこの地に語り継がれている。
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